映画の好きな構図 その2

今回も私の好きな映画における構図について書いていこうと思う。
今回も例としては2作品挙げる。

1作品目
1961年
「用心棒」
監督:黒澤明
撮影:宮川一夫

この映画に関して私が今回揚げるのは以下のシーンでだ。

おそらく史上初の時代劇上のスプラッターシーンだ。
このシーンは極めて素早い殺陣のシーンでカメラは水平に動きながら三十郎の動きを追う。
映画においては特に1960年代まで手持ち用のカメラが普及していなかったため、カメラ自体が巨大であるために移動しながらの撮影にはかなり制約があった。
また、この映画でカメラアシスタントを務めていた木村大作監督のインタビューによれば移動撮影のピントを手動で合わせるという通常では考えられない撮影をこの映画では行っていたとのことだ。

例に出したこのシーンにおいても夜間のシーンであるにも関わらず、カメラを左右に動かし、平面的な舞台配置ではありながら、画面の全てにピントの合っている状態でどうやって撮影が行われたのかかなり謎のシーンではある。

このシーンでは切られたチンピラがまさに血しぶきを上げ画面中央から左端へ移りながら絶命する。
画面上の左右の動きや関係性が特徴的なシーンだ。

そもそもこの映画は一つの街道を舞台している関係上カメラが右へ左と動く。
その中で次々とチンピラが殺されていく。

近年旧作映画の高画質化により、この映画も私が昔VHSで観た時と比べるともうほとんど別の映画と言っても良いほど鮮明になった。
今回サンプルにした画像はアメリカのクライテリオン社によるリマスター版である。
古い映画をデジタルによる修復で高画質化することに関しては好き嫌いの分かれるところもあるが、私は以前ブログに書いたことがあるが、映画において一番気にして観ている点は「距離」についての表現である。
この「用心棒」においてはリマスターによる一番大きな変化はピントの深さにあると思っている。
また、特に画面の暗い部分の鮮明化というのもここで取り上げたシーンとしては大きい。
このシーンは黒澤明というよりカメラマンの宮川一夫の作風が色濃い部分ではあるかと思う。
娯楽活劇の中の緊張感のある残酷ショットだ。

2作品目
2007年
「その土曜日、7時58分」
監督:シドニー・ルメット
撮影:ロン・フォーチュナト

2点目は巨匠シドニー・ルメットの遺作である「その土曜日、7時58分」だ。
この映画の特徴は、デジタル撮影が用いられていることだ。
しかも、時代的に低予算映画でのデジタル撮影としては先駆的な作品とも言える。
シドニー・ルメットは映画製作における技術面に関しは、新しい技術はかなり積極的に取り入れる人であったらしい。

映画全体はニューヨーク派の巨匠の遺作として、まさにニューヨーク映画らしい戯曲的な作品で、イーサン・ホーク、故フィリップ・シーモア・ホフマン、マリサ・トメイ、そして昨年亡くなった名優アルバート・フィニー等の名優達のアンサンブルが非常に素晴らしい傑作だ。

個人的にはこの映画のマリサ・トメイはベストアクティングではなかと思っています。
また映画におけるマイケル・シャノンも非常に素晴らしく恐ろしい演技を見せている。

例にしたシーンは兄弟役であるイーサン・ホークがフィリップ・シーモア・ホフマンに会いにオフィスを訪れるシーンだ。
恐ろしく直線的な構図で深い奥行きの画面の端から端にピントがバッチリ合っている。
この映画を劇場で鑑賞したときのことを思い出すとまずこのシーンを私は思い出してしまう。

シドニー・ルメットはデジタル撮影に関して少ない光量での撮影の簡易さと、また極端に明るいシーンにおいてフィルムと全く違う撮影ができるという2点の特徴を上げていたが、このシーンは後者に当たる。
このシーンは直線的な構図で兄弟の関係性の無機質さや距離感を寓意として表している。
残念ながらシドニー・ルメットはこの映画が遺作となってしまったが、2007年の段階のデジタル撮影の黎明期の作品でありながらデジタル撮影のデメリットをほとんど感じないのはとてもすごいことだ。

本来であれば当時のデジタル撮影ではどうしてもビデオっぽい画像と感じてしまったりするものだが、この映画のBlu-rayの特典映像でシドニールメット本人もデジタル撮影のメリットデメリットに関してかなり事細かに話している。

今回は以上の2作品について考えた。

映画の好きな構図 その1

私の映画における好きな構図について考えてみたいと思う。
まず今回は2点の作品を例に考えてみたいと思う。

1作品目
1962年
「アラビアのロレンス」
監督:デヴィッド・リーン
撮影:フレディ・ヤング

この超のつく名作に関しては、基本的にすべてのカットが非常に計算された構図で構成されており、映画のどのコマで止めても優れた構図を見ることのできる映画だ。
ここで私が挙げたいのはオープニングクレジットだ。
この映画はこの時代の大作映画の特徴でもあるイントロダクションがある映画で、映画が始まると画面が黒みのまま、5分ほど序曲が流れてから始まる。
この映画は主人公のロレンスの事故死から始まるが、オープニングはロレンスがオートバイに給油をして乗り出すまでの過程を俯瞰で映す。
画面ではシネマスコープの画面比率の左端に停車するオートバイにロレンスが給油をし、右側に広く空いた石畳の地面にクレジットが映し出される。
石畳は直線的な模様で、ここでの構図の妙な緊張感は素晴らしいの一言に尽きる。

私にとって映画表現において最も重要な要素は「距離」でありすなわちそれは「時間」である。
映画は絵画と比べると時間経過そのものを扱えるため、私はこの「時間」の要素をどのように表現するかということによく着目して映画を観ている。

このオープニングクレジットの直後のカットはロレンスがオートバイを運転する様子を正面から顔のアップで捉える映像になる。
ここではスクリーンプロセスは使われずロケーション撮影が行われている。
私は映画のこういった車載映像的なショットも好きだ。

奥行方向の動きを直接動かして表現することにいつも平面を描いている身として憧れを持って見ることが多い。

また、この映画では非常に著名な砂漠の地平線の彼方から人物が小さな点となって現れて、目の前にやってくるまでをワンカットで見せるオマー・シャリフの登場シーンも有る。
しかしこの映画映画はその場面にとどまらずオープニングのクレジットからヒリヒリした緊張感のある映像を観せてくれる。

2作品目
1966年
「袋小路」
監督:ロマン・ポランスキー
撮影:ギルバート・テイラー

この映画も60年代のイギリス制作の映画だが「アラビアのロレンス」の様な大作ではない。
しかしこの映画もすべてのカットが異常な緊張感のある構図で撮影されている映画だ。
映画自体は不条理劇に近い悲喜劇(トラジコメディ)でポランスキーがよく描く戯曲のような箱庭劇だ。

そもそも古城に住むリタイヤした中年作家と若くて美しすぎる不釣り合いな妻の夫婦のもとに、まさに絵に書いたような頭のおかしなギャングが迷い込んでしまう居心地が悪い状態の、一つも噛み合わないコミュニケーションで描かれる思わせぶりなコメディだ。
例に上げたシーンはお話の序盤に潮が満ちて自動車が水没しかけてしまうことに気がついて慌てふためく物語としては冒頭部分からの導入のつなぎのシーンだ。
なのにこれほど不穏に描いている。
ここではフィルターを使用して画面上部から暗いグラデーションをかけ、おそらく照明も使っての野外撮影だと思われる。
これは白黒撮影でできることを十分に生かした表現だ。
私はこの丘の向こうから人影が現れるシーンの明暗の配置とバランスには舌を巻いたと同時にこのシーンを何故これほどドラマチックにするのだろうか?
とも感じた。
しかしなんだかずっと心に引っかかりのあるシーンだ。
このシーンは夕暮れの夜になりギリギリのいわゆるマジックアワーと言われる時間帯を描いている。
この映画は時間の経過を白黒の映画であるにも関わらず、空模様や天気の移り変わりで表現してるところがある。
ちなみ丘のショットの直後のシーンは以下のような切り返しショットだ。

すでに何もかもがちぐはぐだ。

今回挙げた2点の作品のショットは実際には動く映像であり、映画全体の中の部分であるわけなのでぜひ観てみてもらいたい。

アラビアのロレンスのオープニングクレジットは平面的で線的な緊張感であるのに対して袋小路の丘のショットはグラデーションを使った表現だ。

白黒映画について考えた

今日、モノトーンの表現について考えることがあった。

20代や30代の比較的若い普段よく映画を見るという人複数と話していて、
「古い白黒映画は観ますか?」と聴くと「観ない」もしくは「見ることに抵抗がある」と答えが帰ってくるケースは多い。
当然、映画は現在性の強いコンテンツであるため、基本的には新しいものほど多くの人に見られるべきではあると思う。
しかし、ある年代以下の映画ファンと自認する人であっても白黒映画を「今」積極的には観ない。となってしまうのはなぜだろうか?
と少し考えてしまった。

また、美術、特に絵画の領域において、「若い作家が古色然とした色使いに拘泥するのは理解できない」という意味合いの意見をネット等で見ることがある。
(※これは単に渋い色使いに対しての否定的な考え方だけではなく、主に美術大学の日本画の教育における思想の色彩に関する傾向に対しての批評的な意見である場合もある。)
これには、私は同意できる部分と、果たして色彩だけで批評できる問題だろうか?と思う部分がある。

私自身は、20代の中盤くらいから絵画の制作においては墨を使った表現に取り組み始め、現在に至るまで制作する作品の多くはモノトーンに近い物が多い。
ただし、現在はモノトーンのくり返しからの脱却欲求から、取り組み方を変えつつあるが、あまりうまくいっていない状況である。

創作活動しているとたまに他人から〇〇らしさを求められてしまうことに辟易としていしまうことが多くある。
上記した若者らしさみたいなものも、若い時に「若者らしくない」と言われても本人にとって多くは「大きなお世話」でしかないように思う。

しかし、私の場合は22歳の時に小学校低学年くらいの子供からナチュラルに「おじさん」と言われたことがショックでその日のうちに髪の毛を金髪にしたことがある。
その時私にとって若さとは金髪だった。
正真正銘のおじさんとなった今、そのことを思い返してもその時私はただ金髪の22歳のおじさんになっただけだったと思う。
かなしい。

日本の美術大学における主に日本画などで見られる教育制度の傾向や、美術史上の問題を論ずるのはこの記事の本意ではないため書かない。
私自身は教育によって、必要以上に個人のクリエイティビティの発露に制限をかけた結果、制作をしている本人という当事者性の希薄な表現が身についてしまうことは不幸なことだと思う。
私自身にもそれは大なり小なり起こっっていることだと自覚している。

話を白黒映画に戻せば「古い白黒映画」は映画鑑賞においてはやはり「古典」であると言える。
そのため、映画を娯楽のためのコンテンツとして考えた場合にはやはり、食指が動きにくいものであることは否定できない。
また、今の20代からすればたとえ90年代であってもすでにそれはそれなりの「昔」である。
1950年代とかならまだしも1920年代や1930年代等はもう江戸時代と大差のないおおざっぱな意味での「昔」になってしまう。
そうなるととっつきにくさは遥か山のごとしとなってしまうのということになってしまうのは仕方がないだろうとは理解している。

しかし、白黒映画にしかない魅力は確かにあると私は感じている。
先日ブログの記事にも書いた「狩人の夜」のように、現在でも十分に楽しめるし、驚くほど素晴らしい古い白黒映画はたくさんある。
また、1990年代以降ごく最近(私にとっては)でも白黒で撮られた魅力的な作品は存在する上に、「ローガン」や「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のように公式に白黒のバージョンが存在する最近作も存在する。

いくつかピックアップして記事を終わろうと思う。

「カリガリ博士」1920年言わずとしれたドイツ表現主義の金字塔

「アッシャー家の末裔」1928年 アメリカ文学であるポーの短編をポーランド系フランス人のジャン・エプシュタインが製作した実験的作品

「赤ちゃん教育」1938年 ハワード・ホークスのスクリューボール・コメディーの代表作

「拳銃の報酬」1959年 ハリー・ベラフォンテ主演のえげつないフィルムノワール、OPクレジットがめちゃくちゃかっこいい

「袋小路」1966年 ロマン・ポランスキーの作品、映像がとにかく凄まじい

 

比較的最近の映画も、

「ありふれた事件」1992年 映画におけるバイオレンス表現のポストモダン化を考える時にこの作品は非常に重要だと思う。
ショッキングなものを観る覚悟がない場合は視聴をおすすめしない。

「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」2013年 アレクサンダー・ペインの傑作だと私は考えている。アメリカンニューシネマへの追憶と、リスペクトに満ちた鎮魂歌

「フランシス・ハ」2014年 今年「レディ・バード」で注目されたグレタ・ガーウィグがノア・バームバックと組んだ作品、

当然上記の映画以外にも、比較的近年の映画でも「ベルリン天使の詩」や「エレファントマン」「イレイザーヘッド」などのリンチの作品など枚挙に暇はない。
古い作品もしかりである。
現在ではかなりの高画質で観られる古い作品も多い。