映画の好きな構図 その2

今回も私の好きな映画における構図について書いていこうと思う。
今回も例としては2作品挙げる。

1作品目
1961年
「用心棒」
監督:黒澤明
撮影:宮川一夫

この映画に関して私が今回揚げるのは以下のシーンでだ。

おそらく史上初の時代劇上のスプラッターシーンだ。
このシーンは極めて素早い殺陣のシーンでカメラは水平に動きながら三十郎の動きを追う。
映画においては特に1960年代まで手持ち用のカメラが普及していなかったため、カメラ自体が巨大であるために移動しながらの撮影にはかなり制約があった。
また、この映画でカメラアシスタントを務めていた木村大作監督のインタビューによれば移動撮影のピントを手動で合わせるという通常では考えられない撮影をこの映画では行っていたとのことだ。

例に出したこのシーンにおいても夜間のシーンであるにも関わらず、カメラを左右に動かし、平面的な舞台配置ではありながら、画面の全てにピントの合っている状態でどうやって撮影が行われたのかかなり謎のシーンではある。

このシーンでは切られたチンピラがまさに血しぶきを上げ画面中央から左端へ移りながら絶命する。
画面上の左右の動きや関係性が特徴的なシーンだ。

そもそもこの映画は一つの街道を舞台している関係上カメラが右へ左と動く。
その中で次々とチンピラが殺されていく。

近年旧作映画の高画質化により、この映画も私が昔VHSで観た時と比べるともうほとんど別の映画と言っても良いほど鮮明になった。
今回サンプルにした画像はアメリカのクライテリオン社によるリマスター版である。
古い映画をデジタルによる修復で高画質化することに関しては好き嫌いの分かれるところもあるが、私は以前ブログに書いたことがあるが、映画において一番気にして観ている点は「距離」についての表現である。
この「用心棒」においてはリマスターによる一番大きな変化はピントの深さにあると思っている。
また、特に画面の暗い部分の鮮明化というのもここで取り上げたシーンとしては大きい。
このシーンは黒澤明というよりカメラマンの宮川一夫の作風が色濃い部分ではあるかと思う。
娯楽活劇の中の緊張感のある残酷ショットだ。

2作品目
2007年
「その土曜日、7時58分」
監督:シドニー・ルメット
撮影:ロン・フォーチュナト

2点目は巨匠シドニー・ルメットの遺作である「その土曜日、7時58分」だ。
この映画の特徴は、デジタル撮影が用いられていることだ。
しかも、時代的に低予算映画でのデジタル撮影としては先駆的な作品とも言える。
シドニー・ルメットは映画製作における技術面に関しは、新しい技術はかなり積極的に取り入れる人であったらしい。

映画全体はニューヨーク派の巨匠の遺作として、まさにニューヨーク映画らしい戯曲的な作品で、イーサン・ホーク、故フィリップ・シーモア・ホフマン、マリサ・トメイ、そして昨年亡くなった名優アルバート・フィニー等の名優達のアンサンブルが非常に素晴らしい傑作だ。

個人的にはこの映画のマリサ・トメイはベストアクティングではなかと思っています。
また映画におけるマイケル・シャノンも非常に素晴らしく恐ろしい演技を見せている。

例にしたシーンは兄弟役であるイーサン・ホークがフィリップ・シーモア・ホフマンに会いにオフィスを訪れるシーンだ。
恐ろしく直線的な構図で深い奥行きの画面の端から端にピントがバッチリ合っている。
この映画を劇場で鑑賞したときのことを思い出すとまずこのシーンを私は思い出してしまう。

シドニー・ルメットはデジタル撮影に関して少ない光量での撮影の簡易さと、また極端に明るいシーンにおいてフィルムと全く違う撮影ができるという2点の特徴を上げていたが、このシーンは後者に当たる。
このシーンは直線的な構図で兄弟の関係性の無機質さや距離感を寓意として表している。
残念ながらシドニー・ルメットはこの映画が遺作となってしまったが、2007年の段階のデジタル撮影の黎明期の作品でありながらデジタル撮影のデメリットをほとんど感じないのはとてもすごいことだ。

本来であれば当時のデジタル撮影ではどうしてもビデオっぽい画像と感じてしまったりするものだが、この映画のBlu-rayの特典映像でシドニールメット本人もデジタル撮影のメリットデメリットに関してかなり事細かに話している。

今回は以上の2作品について考えた。

映画の好きな構図 その1

私の映画における好きな構図について考えてみたいと思う。
まず今回は2点の作品を例に考えてみたいと思う。

1作品目
1962年
「アラビアのロレンス」
監督:デヴィッド・リーン
撮影:フレディ・ヤング

この超のつく名作に関しては、基本的にすべてのカットが非常に計算された構図で構成されており、映画のどのコマで止めても優れた構図を見ることのできる映画だ。
ここで私が挙げたいのはオープニングクレジットだ。
この映画はこの時代の大作映画の特徴でもあるイントロダクションがある映画で、映画が始まると画面が黒みのまま、5分ほど序曲が流れてから始まる。
この映画は主人公のロレンスの事故死から始まるが、オープニングはロレンスがオートバイに給油をして乗り出すまでの過程を俯瞰で映す。
画面ではシネマスコープの画面比率の左端に停車するオートバイにロレンスが給油をし、右側に広く空いた石畳の地面にクレジットが映し出される。
石畳は直線的な模様で、ここでの構図の妙な緊張感は素晴らしいの一言に尽きる。

私にとって映画表現において最も重要な要素は「距離」でありすなわちそれは「時間」である。
映画は絵画と比べると時間経過そのものを扱えるため、私はこの「時間」の要素をどのように表現するかということによく着目して映画を観ている。

このオープニングクレジットの直後のカットはロレンスがオートバイを運転する様子を正面から顔のアップで捉える映像になる。
ここではスクリーンプロセスは使われずロケーション撮影が行われている。
私は映画のこういった車載映像的なショットも好きだ。

奥行方向の動きを直接動かして表現することにいつも平面を描いている身として憧れを持って見ることが多い。

また、この映画では非常に著名な砂漠の地平線の彼方から人物が小さな点となって現れて、目の前にやってくるまでをワンカットで見せるオマー・シャリフの登場シーンも有る。
しかしこの映画映画はその場面にとどまらずオープニングのクレジットからヒリヒリした緊張感のある映像を観せてくれる。

2作品目
1966年
「袋小路」
監督:ロマン・ポランスキー
撮影:ギルバート・テイラー

この映画も60年代のイギリス制作の映画だが「アラビアのロレンス」の様な大作ではない。
しかしこの映画もすべてのカットが異常な緊張感のある構図で撮影されている映画だ。
映画自体は不条理劇に近い悲喜劇(トラジコメディ)でポランスキーがよく描く戯曲のような箱庭劇だ。

そもそも古城に住むリタイヤした中年作家と若くて美しすぎる不釣り合いな妻の夫婦のもとに、まさに絵に書いたような頭のおかしなギャングが迷い込んでしまう居心地が悪い状態の、一つも噛み合わないコミュニケーションで描かれる思わせぶりなコメディだ。
例に上げたシーンはお話の序盤に潮が満ちて自動車が水没しかけてしまうことに気がついて慌てふためく物語としては冒頭部分からの導入のつなぎのシーンだ。
なのにこれほど不穏に描いている。
ここではフィルターを使用して画面上部から暗いグラデーションをかけ、おそらく照明も使っての野外撮影だと思われる。
これは白黒撮影でできることを十分に生かした表現だ。
私はこの丘の向こうから人影が現れるシーンの明暗の配置とバランスには舌を巻いたと同時にこのシーンを何故これほどドラマチックにするのだろうか?
とも感じた。
しかしなんだかずっと心に引っかかりのあるシーンだ。
このシーンは夕暮れの夜になりギリギリのいわゆるマジックアワーと言われる時間帯を描いている。
この映画は時間の経過を白黒の映画であるにも関わらず、空模様や天気の移り変わりで表現してるところがある。
ちなみ丘のショットの直後のシーンは以下のような切り返しショットだ。

すでに何もかもがちぐはぐだ。

今回挙げた2点の作品のショットは実際には動く映像であり、映画全体の中の部分であるわけなのでぜひ観てみてもらいたい。

アラビアのロレンスのオープニングクレジットは平面的で線的な緊張感であるのに対して袋小路の丘のショットはグラデーションを使った表現だ。

映画「イーダ」観た話

昨年自宅で鑑賞した映画に2014年のポーランド映画、パヴェウ・パヴリコフスキ監督の「イーダ」ついて書きたい。

これは公開時に観たいと思って見逃していた映画で、昨年同監督の新作「COLD WAR あの歌、2つの心」が公開されたこともあって何周か遅れてようやく観た。
私は映画が好きだが新作を積極的に劇場に見に行くタイプではないため、リアルタイムの劇場での鑑賞をよく逃してしまう。

私はポーランド映画にそれほど明るい訳ではないが、「イーダ」はポーランドという地位域特有の社会性を背景にした上での、至極私的な作品だった。
映画のモチーフ自体は監督の祖母の実体験であるらしい。
また「イーダ」次作に当たる「COLD WAR あの歌、2つの心」は監督の両親をモチーフした話のようだ。(新作はまだ未見だ。)

私は映画をある程度量鑑賞し、自分の好みを顧みて考えてみたがどうやら私は娯楽コンテンツとしての映画にはあまり興味がないとう言うことがわかった。
私は普段絵画を制作しているが、現代の美術というよりも、欧米での批評の対象となるような芸術のメインストリームは単純な平面よりは立体やインスタレーションや、コンセプチュアルなものとなっている。
しかし、特に欧米のある種の映画を何本か観て思ったことは、我々が「絵画」と思っていることの要素の多くは平面のいわゆる「アート」よりも映画に多く引き継がれているように感じる。

話が戻るがパヴェウ・パヴリコフスキ監督の特徴的な作風にスタンダードサイズつまり4:3の画面でデジタル撮影によるモノクロ表現であるという点をまず挙げなければならない。
パヴリコフスキ監督のモノクロ表現はs杖位はデジタルのカラーで行い、ポストプロダクションの段階でモノクロへ調整して落とし込んでいるらしい。
そのためか映画は終始非常に繊細な画面で、観た人の多くはあまり見たことのない映像体験だと感じるかもしれない。

映画のストーリーは大雑把には1960年代のポーランドでキリスト教の修道院で育った孤児が、修道女となるその前に唯一の肉親である叔母が存命であることを知り会いに行き、対面することで自分がユダヤ人であることを知る。
そこから主人公であるイーダは叔母とともに自身の母親が亡くなったとされる村へ叔母の車で旅に出るという話である。

※以下ネタバレあり※
物語の前半はイーダとイーダを引き取らず自身の存在を伝えしていなかった叔母との邂逅の物語だが、後半はイーダにとっては両親。叔母にとっては姉夫婦そして息子の死体を掘り起こすという厳しい話になる上、叔母にとっての強烈なトラウマと直面し、解決をしたあと、するべきことが自らの命を断つこと以外に亡くなってしまうというショッキングなストーリーに展開するが、映像自体は深いグラデーションの静かなモノクロームの映像で描かれる。

これは50代の監督の身内に起こった出来事をある程度の脚色があるかもしれないが、事実を背景に描いている重みのある映画だった。
さっきは映画を絵画の延長線上の表現として考えていたが、この「イーダ」に関しては私小説的な部分を捉えれば文学的な側面も含んでいる。

私は10代や20代のころ表現における私小説的表現がどうも好きになれなかった。
それはどうしても「私」が表現の中心にいて自分がその「私」に感情移入できない場合が多いように思えていたからかもしれない。
しかし、多く映画を見ると、いわゆるハイ・コンセプトではない映画の多くが私小説的な表現であるものが多い。
「イーダ」を観た時に感じたのは、この映画は作り手の「私」の一体どこまでを「私」として捉えるべきなのか。

私小説というのは原則スケールは小さな話になる。
しかし、優れた表現の場合「私」に含まれる領域が自在になる。
「イーダ」の場合、監督自身の祖母(映画内では少女だが)の一人称から始まる物語りの終わりには叔母の死とイーダの自立の様子を経て自身の家族を超えてヨーロッパの歴史そのものが背後に広がりを見せて、なおかつ現代へのつながりも暗示するスケール感の大きな余韻の作品だった。
「私」という視点を用いることで世界に広がりが与えられている優れた表現だ。

また、第2次世界対戦に関しての記憶を形のある表現でできる人は試みる責任がある。とこの作品を鑑賞し強く感じた。
2010年代にこの作品が制作されたこともまた素晴らしいことだと思う。

映画ブリグズビー・ベアについて

まず、映画「ブリグズビー・ベア」に関しての基本情報は以下の通り

製作国:アメリカ合衆国
公開:2017年7月(US) 2018年6月(JP)
監督:デイヴ・マッカリー
原案:カイル・ムーニー
脚本:ケヴィン・コステロ

出演:カイル・ムーニー・クレア・デインズ・マーク・ハミル・グレッグ・キニア・アンディ・サムバーグ

この作品は日本では昨年の6月に公開されて、一部話題になっており予め知り得た情報を見る限り私の好みの映画出ることは想像できていた作品だった。
しかし、結局劇場では観ずじまいの作品だった。そして先日自宅でようやく観たがいやはやこれは、まだ1回観ただけ、しかも観たのが昨日なのでまだ記憶が生々しすぎる部分があるが、端的に言ってこの映画は傑作だった。

この映画の内容を要約すると、幼児の頃に誘拐され、世界は風変わりな終末的世界だと教えられて25歳まで育ってしまった男が25歳で警察に救出されるところからこの映画は始まる。
主人公はこの誘拐されていた男なのだが、誘拐されている間、主人公は「ブリグズビー・ベア」というきぐるみのクマが主人公のSF教育番組だけを娯楽として与えられて生きてきた。
そのため主人公は、この「ブリグズビー・ベア」の非常にコアなオタクに育っており、誘拐されていた間の人生の全てがこの「ブリグズビー・ベア」を観ているか、「ブリグズビー・ベア」について考えているかだった。
しかし、主人公は「救出」されてしまった。本当の家族のもとに戻って彼は本当の母親に聞く「それでブリグズビー・ベアの新しいテープは届いているの?」と。
しかし「ブリグズビー・ベア」は主人公の偽りの父が誘拐した子供に風変わりな終末世界に疑問を持たないよう「教育」するために個人で製作したビデオであることがわかる。
主人公は愕然とし、また絶望する。

しかし、本当の父に連れて行かれた映画を観て非常に感銘を受けた主人公は、現実では誰が映画のような「物語」を作っても良い。ということを知る。地下の生活の中では「ブリグズビー・ベア」が唯一の物語だった。それだけにそれは「絶対」だった。
しかし外の世界では、誰が「物語」を作っても良いのだ。
彼はこれまでの人生のすべてを費やした「ブリグズビー・ベア」の研究の成果をもとに自分自身の「ブリグズビー・ベア」を作ることを夢見るようになる。

という内容である。

まず原案、脚本、監督のデイヴ・マッカリー・カイル・ムーニー・ケヴィン・コステロの3人はサタデー・ナイト・ライブのクルーであり、中学からの同級生だそうだ。
サタデーナイトライブの関係者が関わる映画としては古くはブルース・ブラザーズやウェインズ・ワールド等があるが、最近ではウィル・フェレル等の「俺たち」シリーズ等コメディ映画は多々ある。

ただし、この映画は現役のサタデー・ナイト・ライブの現役のクルーが自主的に製作した映画というもので、ジャンル分けすればコメディとも言えるが、日本ではあまりないジャンルのトラジコメディ(悲喜劇)と言われるジャンルの映画だと私は感じた。
しかし、普段コントを死ぬほど作っている人たちの映画なだけに私がこの映画で優れている点はキャラクターの造形で、この話はある種神話的な構造の普遍性を持っている。
ただ、「誘拐」がモチーフになっているため、社会的なメッセージのようなものを受け取ってしまうと、腑に落ちない話として受け止められてしまうかもしれないし、そのような感想もネットを見る限りは結構あるようだ。

私が感じたのは特に主人公であるジェームスのキャラクターがかなりコント的なキャラクターで、このキャラクターは2004年のアメリカ映画の「ナポレオン・ダイナマイト」の影響があるというか、ほぼナポレオンのキャラクターをトレースしているようなキャラクターだ。
脇役のキャラクターたちもほとんど記号的とも言えるわかりやすいキャラクターたちだ。
つまりこの話は寓話なのだ。

製作者が主人公を誘拐した夫婦の夫に「スター・ウォーズ」という神話の登場人物であるマーク・ハミルをキャスティングしたのも、そういった意図があったのではないかと私は考えた。
また、私がこの映画に感じたものとしては創作や表現の根源にあるものが正しくないものであったとしても、表現そのものの切実さによってその正しくなさを乗り越えることができる。
もしくは本物のまがい物が人の心を打つこともあるのだと言うこと。
ということだった。

とにかく主人公ジェームスにとって「ブリグズビー・ベア」の続きを作ることの切実さを表現しきれているのがすごいことだ。

また、この映画は映画についての映画というジャンルの映画でもある。
主人公がブリグズビー・ベアを作らなくてはならなかった切実さはこの映画の製作者たちの切実さでもある。

私はこれほどの切実さで表現をしているのだろうか?
なにか創作活動を行っている人はこの映画を観ると自分自身にそういった問が思い浮かんでしまうと思う。

リメンバー・ミーと財津和夫

日本では今年の3月に公開されていた、ディズニーピクサーの「リメンバー・ミー」を観ていて、なんだか懐かしい気持ちにさせられるのはなぜだろうか?と思い、自分の記憶を探ってみた。
すると表題曲の「リメンバー・ミー」これが、財津和夫作詞・作曲の「切手のないおくりもの」に曲の構造が少し似ているからかな?と思いついて、YouTubeをみてみたらまさにタイムスリップをさせられるような動画があった。

私は「切手のないおくりもの」はおそらく小学校の音楽の授業で覚えたと記憶している。
曲自体は1977年に作られてNHKの子供向け番組で歌われたもののようだ。

リンクした動画は、おそらく私の生まれた年のもののようだ。
今の子供たちはこの歌は聴いているのだろうか?

しかし、ディズニーは映画の中で”良い歌”を登場させなければならない時に本当に良い歌が作れてしまうのは本当に凄まじい。
それでうまく行っていない映画は山ほどあるが、ディズニーはあまり失敗をしない。
ピノキオ、メリー・ポピンズ、90年代に入ってからの美女と野獣、アラジン、ライオンキングそして近年ではアナと雪の女王も歌先行でヒットした映画だ。

「リメンバー・ミー」はメキシコを題材にしたものが、ディズニー作品として世界的にヒットしたことが注目をされた。
音楽もメキシコ音楽をうまく全世界的に良い曲として聞こえるように味付けがされていて見事だと感じた。
その結果財津和夫の曲と似た感じを私が感じ取ってしまったことは興味深い。

映画のパッケージデザインから考えたこと 続き

昨夜はロング・グッドバイにのBlu-rayのパッケージデザインから考えたことを書きましたが、今日は私が所持をしている映像ソフトのパッケージを眺めてみてより考えてみた。

まず私が所持をしている映像ソフトの多くは、国内レーベルのものが多い。なぜならば私がソフト購入を検討するのは買い逃してしまうと手に入れられなくなる可能性の高いソフト、また、レンタルや配信等ではフルHDの画質で観ることができないものも優先し、購入を検討している。

日本での映像ソフトの商品化においては国内レーベルが商品化をする際に商品化をする権利をある一定期間に絞って取得して商品化するケースが多い。
短い場合だと1年程度で絶盤してしまうこともある。

日本国内のBlu-rayソフトの価格帯には1本通常価格で1,500円程度の価格帯の商品がある。
これはユニバーサルやワーナーといったハリウッドメジャー(ソニー含む)傘下のレーベルの商品がほとんどだ。
これはおそらく流通量や、販売店との契約の形態が国内レーベルとは違い、商品化権を直接自社で持っているレーベルのものがこの価格他のラインナップに入る。
(若干の例外はある。)
このメジャーレーベルの商品の多くはあまり廃盤にはならずにいつでも変える場合が多い。

しかし、昨今よく言われることではあるが、Blu-rayやDVDというメディアもおそらくはそれほど寿命は長くは無いかと思う。
それでも私がソフトを買うのはつまり私はただ所有をしたいという「所有欲」を満たすためを買っている。ということだと思う。
つまりこのあと私がくどくどといろいろ考えているのも非常に個人的なものであることは予め言っておきたい。

前述した1本1,500円程度で買えるソフトは大量生産品といっても良いかもしれない。
しかし、国内レーベルがリリースしている短期間商品化されるようなソフトは確かに「商品」ではあるのだが性格としては嗜好品の部類に入るものだと思う。
映画ビジネス自体が、日本国内ではシネコン以外、映画館の存続はほぼ不可能な状況になり、東京ですら単館系の映画館はもうほとんど残っていないと言っても良いような状況だ。

先日のブログのロング・グッドバイの記事でも書いたが、映画ビジネスのビジネスモデルは年に1回映画館に来るか来ないかの観客をいかに自分のところの作品のところに導くか。というものになっているのが現在だと私は考えている。

また、ソフトビジネスという意味で言えばネット配信が日本でも一般化が進んできたため、そもそもソフトをフィジカルで所持することの意味も本当に失われていく。そのような状況でもソフト化される映画。
そのような商品にとって良いデザインとはなんだろうか?

先日記事を書いたロンググッドバイのパッケージを眺めながら私は本当に考え込んでしまった。
例えば私はこのソフトが10,000円を超える価格であった場合に買っただろうか?
実際来月発売されるいくつかのソフトでそれに近い価格帯のものが存在する。

また、私は出資していないが最近では塚本晋也監督の「狂い咲きサンダーロード」がクラウドファンディングでBlu-ray化が実現していた。
この作品は日本の80年代を代表するカルト映画であるにもかかわらず、このような形でないと商品化されなかった。
(消失したと考えられていたマスターフィルムが発見されたため、修復にそれなりの予算がかかる、などの問題もあった)

当然ビジネスである以上金銭的な枠組みの制約の中で商品は作られる。
そんな中で商品は低価格なものと高額なものとで2極化していく。
ビジネスとして行う以上利益は出さなければならない。
ただ、それをデザインをする側が言い訳に、消費者望まれない形での商品化を正当化するのは私は間違っていると考えている。
(ここで言うデザインを”する側”というのが必ずしも個人でもなくましてや単体の会社法人ではない場合があるというのがキモかもしれない)

ここでいくつか私が所持するソフトのデザインを見てみたいと思う。

まず旧作でパッケージデザインを全く新しく新装しているケース。
「ミツバチのささやき、エル・スール」

外箱に日本人のイラストレーターのイラストがデザインされているタイプ。
本の装丁を思わせるデザイン。中のパッケージは映画本編からのデザイン。
ここで使われている日本語のフォントは教科書体だ。

私はこのデザインは成功しているとおもっているが、1点理解できない点がある。
このボックスは2作品が収められているがそれぞれにライナーノーツが収録されている。
そのライナーノーツに作品の解説以外にとあるJ-POPアーティストのコメント
(詩と記載があるが、おそらく本人も詩だと思って寄稿していないと思われる短いコメント)
が収録されている。
このボックスが発売される際はこのことが比較的大きな売り文句となっていた。
これが本当に理解不能だ。

そのJ-POPのアーティストのファン層を取り込んだりする目的があったのかもしれないが、ノイズ以外の何者でもないと思う。
そのアーティストと、ミツバチのささやき、エル・スールのファン層がうまく重なっているとも思えない。
広告宣伝の思惑なのだろうが、本当に誰かがそれで喜ぶとは思えない。
この作品は非常にカルト性の高い作品なだけに、間違った選択だったと思う。

このビクトル・エリセ監督の映画のソフト化を行ったメーカはIVCというメーカーで、以前はパブリックドメイン版の名作映画のDVDを多くリリースしていた会社で、最近はそういった古い名作映画の高画質版のソフトも多くリリースしている会社である。
以前のパブリックドメイン版の名作シリーズパッケージのイメージは、どの映画も同じフォーマットでのよく見るワンコインDVDのパッケージデザインが多かったが、最近の傾向としては、パッケージデザインに意匠をこらして、新しいデザインにして比較的高額な価格設定でソフトをリリースしている印象がある。

これは、映像ソフトの市場の間口が以前よりも小さくなっていることへの対応であると言えるし、私自身は結構IVCのソフトを買っている。
取り上げる作品には明快に指向性があり、その点においては非常に信頼の置けるレーベルだと思う。

私が所持している物の中でIVCのもののいくつかを例に上げると、オーソン・ウェルズの市民ケーン、ロベール・ブレッソンのスリ、及びラルジャン。ソ連映画の炎628などである。

画像はないが、ピーター・イェーツの大列車強盗団、キャロル・リードの2つの世界の男等、DVDで所持しているものもある。
これらはすべて新装のデザインだ。これらのデザインに関しては私は概ね好感を持っている。

ことBlu-rayに関してはIVCに関して最近はクライテリオンケースと言うタイプのケース上部のはみ出しのないタイプのものを採用しているのも特徴だ。

クライテリオンケースの話が出たのでクライテリオンのソフトも紹介しておこうと思う。
私が所持しているのは黒澤明の用心棒と椿三十郎だ。

クライテリオンはアメリカの会社で、名作映画を自社でレストアしてリリースをしているレーベルだ。
Blu-rayは日本と北米のリージョンが同一なため、日本映画の北米版ソフトは日本のプレイヤーで再生が可能だ。

クライテリオンのレストアは、ノイズを可能な限り取り去って本当に新品同様の画質にレストアするのが特徴で、
古い作品の場合、日本でのレストアや、その他のレストアでは多く、フィルムの風合いや、公開当時の水準を踏まえたレストアになることが多いがクライテリオンの場合そんなのお構いなしに徹底的にきれいにしてしまう。

また、パッケージデザインも、デザイン的に新しく作ってリリースする。
おそらくマニア向けのこのようなビジネスモデルとしてはかなり先駆的なレーベルだと思う。

このクライテリオンケースと言われるケースは現在日本では前述のIVCや角川系のレーベルでも多く使われている。

次にわかりやすコレクター向けのパッケージデザインのものを2つ紹介する。

1つ目は「グラインドハウスU.S.A.VersionPLUS」

これはクエンティン・タランティーノとロバート・ロドリゲス共作の2本立て映画で、日本では2本プラネット・テラーとデス・プルーフという別々の映画として公開されたものの2本立てバージョンだ。
このバージョンは日本では数回限定的に劇場公開されているが基本的には未公開の仕様の作品だ。
パッケージも紙ジャケ仕様で豪華だ。
レーベルはジュネオンユニバーサルエンターテインメントなのでユニバーサル系のレーベルだ。

2つ目はカッコウの巣の上でのスチールブック仕様でこれも販売期間が限定されて発売されたものだ。

スチールブック仕様のBlu-rayは、多くアマゾンで限定発売されるケースがあるが、これは一般発売されていた。
このデザインはスチールブイック仕様固有のもので、わたしはデザインも質感も大変気に入っている。
実はこのスチールブックが私は、コレクション用パッケージとしては一番良いのではと思っている。

次にレーベルも気合を入れて制作したであろうもので、私にとってなんだかいまいちなデザインになってしまったものを一つ取り上げる。
エドワード・ヤンの「クーリンチェ少年殺人事件」だ。

この映画は、長らく日本では劇場上映が権利的にできない作品としてよく知られていたもので、236分という長尺の上映時間も相まって見る機会が極端に無い幻の傑作と言われていた作品の満を持したソフト化である。
おそらくかなり気合の入った商品化だったと思う。

しかし、まず、問題はこのソフトのケースサイズがDVDサイズである点である。
これは特典ディスクがDVDである場合や、Blu-rayとDVDの本編ディスクがセットになっているものでたまに見られる形態だ。
Blu-rayサイズのものを多く集めているものからすると、この手のものはどのように商品を自分の棚に並べるかを考えた際に非常にパッとしない。
Blu-rayであるにもかかわらず、他のBlu-rayと並べると高さが合わない。
気にしない人なら良いが、同じレーベルから出ている他のエドワード・ヤンのBlu-rayはBlu-rayサイズのケースを採用している。
コレクター向けの商品であるはずなのに、大事な何かが犠牲になっている。

このソフトは外箱がついているタイプのパッケージで、外箱のデザインは劇場でリバイバル公開をした際のポスターデザインに準ずる。
しかし1991年の台湾での公開時や1992年の公開時に使用されたポスターなどのビジュアルイメージをみると個人的にはリバイバルのビジュアル展開はかなりデオドラントされたものに思えてならない。

ただし、デザインとしてはそれほど悪いものではないと思う。
このソフトに関して問題は、中身のデザインにある。
特にリーフレットが「ひどい」はっきり言いたい。「ひどい」のだ。

この映画は学園ものとして捉えることができる作品だ。
しかもアジア映画で、登場位人物の多い群像劇だ。リーフレットの最初の見開きが人物相関図になっているので画像を載せる。
リーフレットは全体的に卒業アルバムのようなイメージのデザインになっている。
人物相関図もなんだか韓流ドラマのパッケージ裏のデザインのようだ。

しかし、この映画を観たことのある人ならわかるはずだ。
この映画はこんなイメージの映画ではない。

海外の映画を日本で売るために、本来シリアスなドラマを恋愛映画のように宣伝したり、コメディ作品なのにいかに泣けるかを宣伝したり、実際の映画とイメージの合わないイメージ戦略はよく見られるように思う。
この映画のソフトの販売戦略ではそれが行われているような気がしてならない。
このパッケージデザインだけ見れば青春群像劇と捉えられるようにミスリードされたデザインだと私は感じた。

この映画は、実際に青春群像劇の形はあるにはあるが、ある種セカイ系を脱構築したような構造を持った、ロシア文学、トルストイやドストエフスキーのような読み味の作品である。
このデザインには私は非常にがっかりした。

この他にもいくつかのデザインを例に上げてみる。
最近上映がかなったカルト映画という点で「クーリンチェ少年殺人事件」同じような映画イエジー・スコリモフスキの「早春」はリバーシブルジャケットを採用していた。

これは「クーリンチェ」とは逆のパターンで1972年の公開時に甘酸っぱい青春者のような宣伝をされ、現代が「DEEP END」なのに邦題を「早春」とつけられたことを逆手に取って、1972年の公開時バージョンといリバイバル時のイメージとでリバーシブルジャケットにしたものだ。
これは私は気に入っている。

他にもジャック・タチのリマスターシリーズのBlu-rayも非常に優れたデザインだ。

これはもとの映画のグラフィックがデザインとして優れているからと言うことも言えると思う。
しかし、この商品を買いたい人のことがよくわかっているデザインだと私は思う。
この辺はロマン・ポランスキー監督の初期作のソフト化でも同様に良いデザインのパッケージだったと思う。

また古い作品の昔のポスターデザインを引用するパターンも多くある。
なにかこれまで上げたデザインを観てみるとすごく無難な感じがしてしまう。
デザインを新装することのリスクがいかばかりかよく分かる。
しかしここでも青いケース問題がはっきり現れる場合がある。
古いポスターのデザインの場合、だいたい青いケースとは相性が良くない。
最近は黒いケースやクリアケースを使っているものも多くあるが、やはり青いケースも依然として使用される。
「突破口」はその典型だろう。

「切腹は」クライテリオンケースを採用している。

「バニシング・ポイント」は古い映画だが新しくデザインしたものとしては私は好きなデザインだ。
完全に好みの問題だとは思うけれど。

ここまで考えてきて、一つ思い至ったことがあるので書いとこうと思う。
勝手な想像で書くが、おそらく映画のビジュアルイメージを決めていく際には、やはり会社組織でやる以上は、複数人数で作り上げていくものだと思う。
その時、マーケティング目的としてデザインを構築しようとすれば、必要な「情報」を分解し、顧客に対して商品のイメージが届くように考えるのだろうと思う。
しかし、デザインのような視覚造形的なイメージによって伝えられることは言語的な「情報」とはイコールではないことのほうが多いと私は考える。

簡単に言えばデザインにはデザインにしかできない領域がある。
これは映画そのものにすでに内包されている。
それは映画そのものが作品であるのだから当然だ。
だから、優れた映画は優れたルックをもっている。そのルックの延長線上に無いデザインになってしまうと実際の作品の印象から離れてしまう。

私が失敗していると思えるデザインや商品の仕様は、明らかに言語的な「情報」が先に勝ってしまっているように思う。
うまくいっていない場合はデザイナーの力量がやはり足りなかったと言えるのだろうか?
いろいろ考えてしまう。

また、映画ファン向けのソフトを多くリリースしているキングレコードの「死ぬまでにこれを観ろ!」シリーズの背表紙について触れておきたい。
キングレコードは、素晴らしい映画をたくさんソフト化してくれるレーベルだが、上記のシリーズの背表紙が画像のようなもの(シリーズによって色が違う)になってしまう。

金額の問題であることは理解できる。がなんとかリバーシブルか交換が可能な仕様にできないものか。。

最後に私が一番驚いたパッケージデザインを紹介して記事を終わりにしたい。
1981年の「タイタンの戦い」だ。

この映画はレイ・ハリーハウゼンがストップモーションの特撮を担当した映画で、もともとは、ネバーーエンディングストーリーの映画のポスターなどに近いデザインのポスターだったりした時代の映画だが、現在入手できるBlu-rayのジャケットデザインは上記のようなものだ。
お前はいったい誰なんだ。

ロング・グットバイのBlu-rayのパッケージを見て思ったこと

映画のソフトのパッケージのデザインについて、また、現在の現在の日本における映像コンテンツの消費のされ方も含めて考えをまとめようと思い記事を書きます。

まず、この記事を書こうと思ったきっかけは、1973年ロバート・アルトマン監督作、エリオット・グールド主演の映画「ロング・グッドバイ」が日本では初めてBlu-ray化され、私はこの映画が好きなので、発売の発表とともに予約をし、先日の発売日に入手をしたことからはじまりました。

この映画はこれまで画質があまり良くないDVDが2バージョン出ていました。撮影の素晴らしさがよく語られるこの映画のBlue-ray化は非常に楽しみでした。
DVDパッケージ

前提として、古い映画がBlue-ray化される際にただ映像がフルHD化するから画質が良くなるわけではなく、高画質なソフト化を前提にマスターフィルムが再制作されリマスターがされることによって画質というか、映像ソースそのものがリマスターされることに意味があります。
最近では、過去にTV等で使用された吹き替えなどを収録したり、特典映像をつけたりして、比較的高額な価格帯でBlue-ray化をする場合が増えてきたように思えました。
「ロング・グッドバイ」のBlue-ray化もこの流れに類する商品でした。
「ロング・グッドバイ」のBlue-rayの商品のイメージ画像をアマゾンで見た際はまあまあ良いデザインのパッケージかなと思いました。
しかし、実際の商品が届くと、なんだかイマイチパッとしないデザインのように思えました。

これはまず第一にケースが青いケースであったことに起因します。
Blu-rayのソフトはメディアの規格が成立する際にビデオテープでVHSとベータの規格があったように、Blu-rayの他にHD DVDという似たような規格がありました。
結果的にHD DVDは競争に負けて現在は殆ど見ることもありませんが、この2つの規格があった時代にケースの色で差別化を図るために多く青いケースが標準色としてBlu-rayのソフトで採用されたことの名残があるためです。
(ちなみにHDDVD DVDは茶色だったかと思います。)
そのため1本1,500円程度の安価なソフトの場合は殆どの場合この青いケースが利用されています。
おそらく青いケースはBlu-rayのケースでは最も多く生産されている色だと言えると思います。

私はこの青いケースが嫌いです。
Blu-rayのケースはケースの上部にジャケットからケース本体がはみ出した部分があり、そこにBlu-rayのロゴが入っています。
(一部クライテリオンケース呼ばれるDVDケースのようにハミ大部分のないままサイズがBlu-rayのサイズになっているタイプのものも最近では普及しています。)
そのため、この青い色がどのソフトでもある程度の面積で見えることになります。
しかし、青い色が、ジャケットや、映画そのもののイメージと合わないことも多いのにもかかわらず、上記の理由からおそらくコスト的に多くこの青いケースが採用されている場合が目立ちます。
「ロング・グッドバイ」も2枚組のソフトであるため、ケースが特殊ケースになります。

おそらくコスト的な優先順位から青いケースになったのではないかと私は考えています。
そのためか分かりませんがジャケット裏面には青い色面があまり脈略なく配置されていました。
この「ロング・グッドバイ」は商品全体として観た時に、私にとっては青いケースも含めてあまり良いデザインとは言えないと思えました。
まず思ったのは「ケース青い」でした。そのあとなぜこれほどぱっとしないのだろうかと考えてしまいました。
そしてその時感じた違和感は、商品のタイトルのフォントに対してでした。

実際に現物を見ていただければわかるかと思いますが、これまでこの映画のタイトルデザインとしては使われてこなかったタイプのフォントが使われています。
おそらくジャケットデザインのグラフィックに合わせる形でデザインされたものだとおもいます。しかし私は特に、日本語タイトルに問題があるように思います。

おそらくですが、この映画は本編中のオープンニング及びエンディングのクレジットで使用されているフォントのイメージに寄せたような印象もありますが、縁取りとドロップシャドウのせいかずいぶん野暮ったく見えます。

仕方がないので透明のケースを持っていたので差し替えたところあることがわかりました。
このソフトジャケ裏にも写真が印刷されています。
しかも結構良い写真。
また、同封されていたライナーノーツはえらくカッコの良いデザインでした。
というかこのデザインならケースが青くても良いのでは?と思えます。
謎が深まります。
ソフトの内容自体は非常に良いものでした。
繰り返し観る映画になると思います。


よくこの手の話、特に映画のポスターデザインが日本版だけダサくなっちゃう問題がネット等で語られる時に、マーケティング上の要請によって生み出されるデザインについて特にそのジャンルのファンは理解が無い。という意見を目にすることが多いです。

簡単に言えば映画の宣伝はファンに向けたものではなく、例えば年に数回程度しか映画館に行かない人をいかに呼び込むかという観点でデザインされているのだから、映画のファンにとって好ましいデザインにはならないのが当然だという考え方。

これは分からなくはない。が、まず、今回私が問題にしている「ロング・グッド・バイ」のBlu-rayはあくまでその作品のファン向けの商品であるはず。
それは価格設定からも伺える。
実際、デザインの企画自体もそのような形で考えられた節はあります。凝っているのです。
しかし、ライナーノーツのデザインではできていることが、ジャケットデザインではできていない。というか明らかに別のデザイナーがデザインしていそうです。

デザイナーの力量かレーベルの限界なのか、この問題に関しては実は山程考えていることがあります。
私は本来デザイン畑の人間ではありません。
ですがこの問題は、私にとってはやはり重要で、それはこのようなデザインの仕事をしている人に対してどうこう思っているというよりは、どうして世の中にデザインとして現れるものがこういった形に私の目に映ってしまうのか?
今後も少しずつ記事にしていこうと思います。

白黒映画について考えた

今日、モノトーンの表現について考えることがあった。

20代や30代の比較的若い普段よく映画を見るという人複数と話していて、
「古い白黒映画は観ますか?」と聴くと「観ない」もしくは「見ることに抵抗がある」と答えが帰ってくるケースは多い。
当然、映画は現在性の強いコンテンツであるため、基本的には新しいものほど多くの人に見られるべきではあると思う。
しかし、ある年代以下の映画ファンと自認する人であっても白黒映画を「今」積極的には観ない。となってしまうのはなぜだろうか?
と少し考えてしまった。

また、美術、特に絵画の領域において、「若い作家が古色然とした色使いに拘泥するのは理解できない」という意味合いの意見をネット等で見ることがある。
(※これは単に渋い色使いに対しての否定的な考え方だけではなく、主に美術大学の日本画の教育における思想の色彩に関する傾向に対しての批評的な意見である場合もある。)
これには、私は同意できる部分と、果たして色彩だけで批評できる問題だろうか?と思う部分がある。

私自身は、20代の中盤くらいから絵画の制作においては墨を使った表現に取り組み始め、現在に至るまで制作する作品の多くはモノトーンに近い物が多い。
ただし、現在はモノトーンのくり返しからの脱却欲求から、取り組み方を変えつつあるが、あまりうまくいっていない状況である。

創作活動しているとたまに他人から〇〇らしさを求められてしまうことに辟易としていしまうことが多くある。
上記した若者らしさみたいなものも、若い時に「若者らしくない」と言われても本人にとって多くは「大きなお世話」でしかないように思う。

しかし、私の場合は22歳の時に小学校低学年くらいの子供からナチュラルに「おじさん」と言われたことがショックでその日のうちに髪の毛を金髪にしたことがある。
その時私にとって若さとは金髪だった。
正真正銘のおじさんとなった今、そのことを思い返してもその時私はただ金髪の22歳のおじさんになっただけだったと思う。
かなしい。

日本の美術大学における主に日本画などで見られる教育制度の傾向や、美術史上の問題を論ずるのはこの記事の本意ではないため書かない。
私自身は教育によって、必要以上に個人のクリエイティビティの発露に制限をかけた結果、制作をしている本人という当事者性の希薄な表現が身についてしまうことは不幸なことだと思う。
私自身にもそれは大なり小なり起こっっていることだと自覚している。

話を白黒映画に戻せば「古い白黒映画」は映画鑑賞においてはやはり「古典」であると言える。
そのため、映画を娯楽のためのコンテンツとして考えた場合にはやはり、食指が動きにくいものであることは否定できない。
また、今の20代からすればたとえ90年代であってもすでにそれはそれなりの「昔」である。
1950年代とかならまだしも1920年代や1930年代等はもう江戸時代と大差のないおおざっぱな意味での「昔」になってしまう。
そうなるととっつきにくさは遥か山のごとしとなってしまうのということになってしまうのは仕方がないだろうとは理解している。

しかし、白黒映画にしかない魅力は確かにあると私は感じている。
先日ブログの記事にも書いた「狩人の夜」のように、現在でも十分に楽しめるし、驚くほど素晴らしい古い白黒映画はたくさんある。
また、1990年代以降ごく最近(私にとっては)でも白黒で撮られた魅力的な作品は存在する上に、「ローガン」や「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のように公式に白黒のバージョンが存在する最近作も存在する。

いくつかピックアップして記事を終わろうと思う。

「カリガリ博士」1920年言わずとしれたドイツ表現主義の金字塔

「アッシャー家の末裔」1928年 アメリカ文学であるポーの短編をポーランド系フランス人のジャン・エプシュタインが製作した実験的作品

「赤ちゃん教育」1938年 ハワード・ホークスのスクリューボール・コメディーの代表作

「拳銃の報酬」1959年 ハリー・ベラフォンテ主演のえげつないフィルムノワール、OPクレジットがめちゃくちゃかっこいい

「袋小路」1966年 ロマン・ポランスキーの作品、映像がとにかく凄まじい

 

比較的最近の映画も、

「ありふれた事件」1992年 映画におけるバイオレンス表現のポストモダン化を考える時にこの作品は非常に重要だと思う。
ショッキングなものを観る覚悟がない場合は視聴をおすすめしない。

「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」2013年 アレクサンダー・ペインの傑作だと私は考えている。アメリカンニューシネマへの追憶と、リスペクトに満ちた鎮魂歌

「フランシス・ハ」2014年 今年「レディ・バード」で注目されたグレタ・ガーウィグがノア・バームバックと組んだ作品、

当然上記の映画以外にも、比較的近年の映画でも「ベルリン天使の詩」や「エレファントマン」「イレイザーヘッド」などのリンチの作品など枚挙に暇はない。
古い作品もしかりである。
現在ではかなりの高画質で観られる古い作品も多い。

狩人の夜のBlue-rayが発売される

「狩人の夜」1955年年のアメリカ映画だ。
一般には、アガサクリスティ原作でビリー・ワイルダー監督の1957年の映画「情夫」の弁護士役で知られているイギリス人俳優のチャールズ・ロートンが唯一監督した作品だ。
この作品は、公開当時批評的・興行的に失敗してしまったためにチャールズ・ロートン唯一の監督作になってしまった映画だ。

1960年代以降、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家や批評家に評価をされ、日本では1990年台に入ってから劇場で公開される等、後年激賞され再評価をされた作品としても有名である。
この映画は、いわゆるフィルム・ノワールの時代の作品だが、作品の持っている特徴は1920年代から1930年台のドイツ表現主義の映画のようでもある。

上記のシーンなどは、まさに表現主義的構図で、ケーテ・コルヴィッツの銅版画のようでもあり、「カリガリ博士」のようでもある。
海外のサンプル動画等を見ると高画質ものも多いようだったが、日本ではあまり画質がはっきりしないDVDでしかソフト化されていない作品だったので単純に嬉しい。

 

狩人の夜 [Blu-ray](アマゾンへのリンク)